ジルベールとセルジュ、そしてボウという名の男 、「風と木の詩」断章
これほど、心を揺さぶられた「漫画」はなかった。今振り返っても、咽ぶココロが甦って来る。同性愛を扱い、それも少年愛を描く。それはインモラル、タブーの境界線を軽々と超越してしまっている。
ジルベールとセルジュ、二人は陰と陽。
決して交わることない、パラレルな現存在だったはずだ。
では、なぜ、2人は交叉できたのか?
分からない、分からない。
翻訳者がいなければ無理だったはずだ。
2人は2人の世界において、完全極致なるロールモデルのだから。
フロイトの地図で、線を引くなら、
ジルベールは、エスであり、快楽原則に、ピタッと張り合わせることができる、
愛の追求者。
一方、セルジュは
超自我であり、道徳原則の世界に堂々と生きる、愛の殉教者。
神と聖霊を仲介する、預言者・キリストがいなければ、交わることない、
2人なはずだ。そこには、そんなものはいない。
でも、それは、キリストのように高貴な者でなくてもいいのかもしれない。
下品で狡猾な、男でいいのかもしれない。
谷崎小説に再三登場し、2人を唆し、囁くことを生業とする、欲望を操る間男。
下卑た噂、嘘、妄想を吹き込む、大衆メディア紙如くの人間で
いいのかもしれない。
2人を交叉させる男、
その名を、オーギュスト・ボウ。
この世界にキリストがいなくても、
世界が成立するのは、それが理由だ。
しかし、その世界は、どんなに、
イエスから離れたものになっているのだろうか。
youtube 『絶望ライン工ch』の真実(笑)⁉
このYoutubeチャンネルは、秀逸である。
絶望と謳っているが、見ているうちに、絶望が反転して、「希望」が笑いとともに、産出されてくる。主菜が(笑)で、副産物が「希望」と言った方が精確だろうか。
彼が喫食する、玉子屋のお弁当を一品、ひと品を、紹介してもらえるシーン。案内とともに、私のこころも高鳴り、私の腹も鳴り、どこにもない完全なるグルメになりにけり。彼曰く、「ポークソテー」、「天然ぶりのフライ」、「小松菜」、「しそ昆布煮付け」、「千切りキャベツ」、「ミートソーススパゲッティ」、「白めし」、そして、「470円~~~~」のダメ押し。額縁を纏った「白めし」は絶望ならぬ、【絶品】グルメとしてこの世に、再降臨を果たす。
千切りキャベツまで省かず、手を抜かず、紹介し、それはおかずの中のヒエラルキーの、最下層にあるはずの千切りキャベツまで、価値あり、としてご案内する意志だろうか。その姿勢は自分のこととも重ねているからか、たまたま、か。
いったい、その希望はどこから来るのか、いやこの番組をみていると、希望とかではなく、主人公の豊かさのほうを感じざるえない。その対比としての、視聴者や自分の貧弱さも。
この構図を生み出す、彼の意識的か無意識的か、怜悧な計算か無頓着さか、いずれにしても、「図」としての、現代の蟹工船か、ぐらいの触れ込みチャネルと、「地」としての豊穣さを感じざるえない戦略。
お金は貰っているかもしれないが、現代のサラリーマンに戦略なんて能力はないし、そもそもその権利と引き換えの、この多少は希望がもてる、貧しく、誰かに依存した昭和から令和に続く
毎日。
この編集技術、ライン工の毎日という主題を切り取ったセンス、喫食等の言述使用の確かさと豊富さ、なにより、プレイヤーの自分を、他者に対して、完全にマネジメントしている自分を持つ、彼の能力。
一言でいえば、
ドラッカーを地で生きているモデルケース。
視聴者という顧客の潜在的デマンドにコミットした、マーケティング
そして
それを成立させる編集技術等の、イノベーションの数々。
ふつうなら、悲劇に終わるところだが、このマネジメント力が
顧客にも自分にも、余裕をうみ、笑いに転化させるのだろう、、、。
ただ、そんな小難しい理屈など、どうでもいい。
是非ぜひ、
「絶望ライン工ch」に見入ってくれたらと、、、。
ホーム用コーヒーメーカーでアメリカンを作り、
買ってきた、温めもせず、泡立てもせず、そのままのミルクをいれて
ミルク入りコーヒーを飲みながら、この文章を書いている私より。
the f'ree stores 東堂五月